清泰山 光教禅寺

光教寺略縁起

n光教寺は、山号を清泰山といい、御本尊はお釈迦様の立像です。ご開山は明遠和尚です。
中興乾宅廻依(ちゅうこうけんたかいえ)和尚または、再興毒海全法首座(さいこうずかいせんぽうしゅそ)の代に妙心寺派に帰属したものと思われます。創建は、京都西園寺家(常盤入道実氏)が宇和を嘉禎二年(1236)に領有してから三十年後の文永二年(1265)と伝えられいます。『宇和町千年史』は、創建の地を上松葉の寺屋敷(旧小字名)と記しています。西園寺家は、天文年間(1532〜1555)にその居城を岩瀬(松葉城)から黒瀬(黒瀬城)へ移転し、光教寺もその城内(光教寺谷)に移転した事が『三島神社社伝』等に明らかにされています。更に、万治年間の当時の日牌過去帳には正林智眼尼が光教寺再興普請に際して浄財(銀四百匁)を寄進せられたことが記されており、現在地(天台宗古刹大念寺旧跡・小字大念寺)に再度移転したことが推定されます。
 本堂、庫裏は、五世洞雲崇巌(とううんすうがん)和尚ならびに六世利道文益(りどうぶんえき)和尚の住山時代、天保年間の建物で、裏手には利道和尚作の高雅幽趣な庭園が残されいます。明治時代には、境内地に申義堂を移転し、開明学校が開設されます。その頃から、明治三十年代か.けて、当寺には敬應正碩(けいおうしょうせき)和尚、猷山士温(ゆうざんしおん)和尚の二代に瓦って長州出身.の住職を迎えています。このことは、進取向学の志しに満ちた宇和の若者の心を大きく導かれた事が伺.われるところです。特に猷山和尚については、当時すでに蘭学、英語、数学、哲学に通暁していたことがその弟子林正道氏の後述によって知れるところです。(実全和尚著、み仏と共により転載)

 昭和35年先代敬宗和尚の時、茅葺屋根から瓦葺へ改修。現在耐震強度補強などの為、修復工事を行っています。暫くの間御迷惑をお掛けいたします。

大きくはないが、風格を感じさせるこの山門は、 1758年九代将軍
徳川家重の時代に建てられた。詳しくはこちらで56号(3)
(中ノ町からの石段は2008年改修工事を致しました)


山門脇から鐘楼を望む、左手前は宝筐印塔。
戦時中日本軍に撤収され鐘楼だけであったが、先代住職の代に鐘が復興した。


本堂と庫裏
本堂は新しく建て替えられました。
山門の修復、蔵の修復も終わり庫裏の修理を待機中です。


霊光塔(納骨堂)
先代住職の代に建立
(この写真は末光氏のホームページからお借りしております)


山門横に建つ水子地蔵尊
(先代住職の代に建立)
お地蔵様の建物は宮大工、金原藤市氏生前最後の作品。


光教寺を御紹介頂いているサイト

古都訪問記

各記事は観光スポットや飲食店等を訪れた際の個人的・主観的なメモです。
..こちらに黒瀬松葉 について詳しく書かれている

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